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最高裁判所第一小法廷 昭和57年(行ツ)167号 判決

上告人

中ノ目新治

右訴訟代理人弁護士

新井章

廣谷陸男

佐藤太勝

被上告人

北海道教育委員会

右代表者教育長

植村敏

右訴訟代理人弁護士

山根喬

上口利男

右指定代理人

成田直彦

梅川三代治

猪俣照男

河野秀平

大内主計

右当事者間の札幌高等裁判所昭和五〇年(行コ)第一〇号、第一一号懲戒処分取消請求事件について、同裁判所が昭和五七年八月五日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人新井章、同廣谷陸男、同佐藤太勝の上告理由について

原審の確定した事実関係のもとにおいては、上告人が年次休暇の時季として指定した昭和四〇年七月二〇日について、労働基準法三九条三項但書にいう「事業の正常な運営を妨げる場合」に当たるとして、校長による時季変更権行使の適法性を肯定したうえ、年次休暇関係の成立を否定した原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大内恒夫 裁判官 谷口正孝 裁判官 角田禮次郎 裁判官 髙島益郎)

上告代理人の上告理由

第一、法令適用―七月二〇日の年休に関する労働基準法三九条三項但書の解釈適用の誤り、

一、はじめに―問題の所在

1 本件は、試験日において出題担当教師が、在校し、試験場を巡回し、試験に立ち会うことの必要性の有無・程度が、労働基準法三九条三項但書にいう「事業の正常な運営を妨げる場合」の解釈適用にかかわって争われている事件である。

上告人は、この点につき、原審でも主張したとおり(原審昭和五五年七月一日付準備書面)、出題教師の試験日における在校の必要性を絶対的に否定する立場ではないことをまず明らかにしておきたい。要は年休の理由となっている他の用務の必要性・切実性との比較衡量の問題であり、他のいかなる必要にも絶対的に優先して出題教師が在校しなければならぬものとは解されないということに尽きる。この立場に立脚して、労基法三九条三項但書にいう「事業の正常な運営を妨げる」場合に該当するかにつき、適正妥当な解決をはかること、これが本件の課題である。

2 原判決は、上告人中ノ目の昭和四〇年七月二〇日の年休権行使につき、夕張南高の事業である第一学期の期末考査の正常な運営を妨げる場合に該ると判断した。そこで、上告人はまず第一に、「労働基準法三九条三項但書にいう「事業の正常な運営を妨げる場合」につきその解釈を明らかにすること、第二に、その解釈に照らして、原判決が本件につき、「事業の正常な運営を妨げる場合」に該ると判断したことが正しいか、につき論述することとする。

二、労働基準法三九条三項但書にいう「事業の正常な運営を妨げる場合」の解釈

1(一) 原判決は、右の点につき、判断の基準を整理して判示している(原判決二3(二)(1))。そして、その判断に際しては、次の三点が留意されるべきであると判示している。即ち、

〈1〉 単に個々の労働者が担当している仕事としての業務の正常であることが阻害されるにとどまらず、当該労働者の所属している事業場の事業の正常な運営が阻害される場合でなければならぬこと

〈2〉 労働者が年休の時季指定をしたときは、使用者において、当該時季に代替要員を確保したり、労働者の配置を変更したりして事業の正常な運営を確保するための可能な限りの手だてを講じたにも拘らずなお事業の正常な運営が阻害されると判断されるときにはじめて時季変更権行使のための客観的要件である「事業の正常な運営を妨げる」事情が存在することになるというべきであって、それらの努力を傾けることなく、ただ漫然時季変更権を行使することは許されないこと

〈3〉 右の「妨げる」場合に当るか否かは、使用者にとって、将来の予測の問題なのであるから、時季変更権行使の時点において妨げる蓋然性があれば足りること

以上の三点である。

右の三点は、年休権に関する判例・学説によって指摘されている到達点を明らかにしたものであり、一般論としては、妥当な指摘であると考える。

(二) 右の三点の指摘のうち、本件の争点との関係で若干の検討を加えておきたい。

(1) 第一は、〈3〉の時季変更権の要件たる「事業の正常な運営を妨げる」場合に該るか否かの判断は蓋然性があれば足りるとしている点である。

この指摘のうち重要なのは原判決が蓋然性(Probability)という表現を使っており、可能性(Possibility)ないしは「おそれ」なる表現を使っていないという点である。時季変更権の判断は右の指摘するように使用者にとっては、たしかに将来の予測の問題であることは否定できない。しかし、時季変更権により、労働者の重要な権利である年休権(注1)の行使が現実に妨げられる以上、使用者の予測が客観性を持たねばならぬのは当然である。使用者の判断が恣意的、かつ自由にできるようなものであれば、労働者の年休権の保障は画餅にすぎぬ結果となる。

もともと、労働基準法三九条三項但書は「事業の正常な運営を妨げる場合」と規定しており条文上からは現実に事業の正常な運営を妨げる結果の発生が要件であるとも解せられる。しかも、前述したように、その判断が使用者の事前の予測であったとしても、本来予測と結果が一致することが予定されているというべきであり、たまたま、予測と結果にズレが生じた場合には、使用者の予測の判断が相当性を有していること、即ち誰が見ても、事業の正常な運営が妨げられるであろうと思われる客観的な事情が具体的に予見される場合にはじめてその使用者の判断は、正当なものとして免責されるのである。そして使用者による時季変更権の行使は正当であったと評価され、使用者は刑事責任(労働基準法一一九条一号)を問われないこととなるのである。

このように、使用者の「妨げる」ことについての予測の判断に、客観性・合理性を持たせる意味で、「蓋然性」が要求されると解する。原判決が「蓋然性」と指摘し、「可能性」「おそれ」といった表現を使用しなかったのも、右の趣旨において理解されるべきである。

現実の年休権行使の実態をみても、年休権が行使されるのは、休暇日に接近した直前に行使されるのが通例であり、それ故使用者にとって、「事業の正常な運営が妨げられる」か否かを客観的に予測することは、容易であるといえるから、「蓋然性」を要求しても問題は生じない。

(2) 右の「事業の正常な運営が妨げられる場合」の判断が「蓋然性」で足りるとする判断は、判例・学説の見解でもある。

(イ) 判例においては、熊本地裁八代支部昭和四五年一二月二三日判決―いわゆるチッソ事件―が、「時季変更権行使の要件としての『業務の正常な運営を妨げる』とは、休暇の実現と事業運営との調和を図る制度の趣旨に照らし、現実に業務阻害の結果が発生することまで要するものではなく、その発生のおそれがあれば足りる」と判示して、この点に関する先例となっている。しかし、右にいう「おそれ」は文字通りの意味に解するのではなく、前述した「蓋然性」の意味に解すべきものである。右判例につき、「業務阻害が生ずる蓋然性の高いことにつき相当の理由ありと認められることをもって足りる」というべきであったとの指摘(ジュリスト別冊労働判例百選第四版一一一頁・右判例についての秋田成就教授の評釈)も、同様の趣旨である。また、山形地裁昭和五一年五月三一日判決―いわゆる山形電報電話局事件判決―も、「使用者の時季変更権成立のためのいわば正当事由は、使用者の事業の正常な運営を妨げる事情(労基法三九条三項但書)であるところ(略)原告の使用者である被告公社の事業そのものの運営上に支障を来す事情と評価されるものでなければならない」と述べるとともに、右の「支障事由の存在は、その判断が事前のもので且つ判断権者が法律上使用者に委ねられているごとや、多くの場合使用者側で無理をしてでも欠員の補充をし、あるいは残余作業員が欠勤者の担当業務を補ってしまう等のため、現実に事業の運営に支障が生じることは少ないと考えるから、結局右支障発生の蓋然性を窺わせる事情が存在すれば足りる」と述べて蓋然性を窺わせる事情ありや否やにつき詳細に事実認定を行っているのである。

(ロ) 他方学説においても、単に抽象的な事業の正常な運営を妨げる「可能性」「おそれ」といった基準ではなくして、具体的かつ客観的な基準を確立しようとする。即ち、「事業の正常な運営を妨げる場合」とは、労働者の年休請求時季に「業務」でなく「事業」の正常な運営が妨げられる「おそれ」が客観的に予測性をもつものでなければならず、その予測性は、当該労働者が年休取得をすることによって、事業の正常な運営が阻害されることと相当因果関係に立たなければならない(松岡三郎・労働基準法一八七頁)とか、その判断は使用者の裁量もあろうが、同時に当該労働者なり、当該事業場の労働者集団の規範意識によっても一応是認しうるような客観性・具体性・個別性をもつものでなければならない(青木宗也ら編・労働基準法の基礎一六二頁)と指摘されているのである。前述した「業務阻害が生ずる蓋然性の高いことにつき相当の理由あり」という解釈も同様の観点からの指摘に外ならない。

(3) 第二に、原判決が、「労働者が年休の時季指定をしたときは、使用者において当該時季に代替要員を確保したり、労働者の配置を変更したりして事業の正常な運営を確保するための可能な限りの手だてを講じたにも拘らず、なお事業の正常な運営が阻害されると判断されるときに、はじめて時季変更権行使のための客観的要件である『事業の正常な運営を妨げる』事情が存在することになるというべきであって、それらの努力を傾けることなく、ただ漫然時季変更権を行使することは許されない」と述べている点である。この指摘は、正当かつ当然の指摘であり本件における具体的認定にあたっても管理者たる校長において、右にいう可能な限りの手だてが講じられたか、を具体的に検証する必要があるというべきである。

もともと、わが国の労働関係においては過大な業務量に対する要員の慢性的不足に年休取得の基本的な困難性があり、使用者はその困難性を除去する社会的責任がある。その社会的責任とは、具体的には、原判決も指摘するとおり、業務量の軽減、必要な要員や代替要員の確保、年休制度を恒常的に保障できるような企業運営に外ならない。年休制度が人間として生存している労働者に対して、よりゆたかな人間にふさわしい生活・自由・文化・余暇を実現せんとするものである以上(注2)、労働者の年休権行使を具体的に妨げるところの使用者の時季変更権行使には、右にいう指摘が、当然のものとして要求されるというべきである。

注1、2 年休権が労働者にとって、労働者の労働権、生存権保障に規範的根拠をもつ権利であり(憲法一三条・二五条・二七条・労基法一条)、その時代水準に照応した人間的な生活・自由・文化・余暇を享有するところの権利であり、生存権的基本権の重要な一環であることはいうまでもない。(世界人権宣言((一九四八年))二四条、ILO条約一三二号((一九七〇年))参照)三、七月二〇日の夕張南高の事業(定期考査)の正常な運営を妨げるおそれがあったといえるか。前述した解釈基準に照らして原判決が「正常な運営を妨げる蓋然性」があると解釈し、法三九条三項但書を適用したのは正しいか。

1 原判決は、積極的かつ具体的に右の「蓋然性」を論証する事実を何ら挙げていない。

(一) 原判決はまつ定期考査と出題教師の在校の必要性について、一般論をつぎのように展開する。(1)期末試験等の定期考査が学習評価に関する重要な学校事業のひとつであり、生徒にとっても、学業成績に影響を与える重要なものであること(2)現実には出題者において相当の注意を払っても誤りの生ずる可能性を否定しえないから、出題教師は試験実施時間中在校し、又は試験実施中の教室を巡回して、必要に応じ生徒の質問に対し応答し若くは試験問題の誤字又は不鮮明部分を補正したりして、試験実施時間中の不測の事態に備えることが望ましい。(3)教科科目担当者が一人である場合には(略)試験教科担当教員の在校する必要性はより大きい。

この論旨の問題点は、「誤りの生ずる可能性を否定しえない」とか「不測の事態に備えることが望ましい」「在校する必要性はより大きい」と述べていることからも明らかなとおり、出題教師が在校する理由として「可能性を否定しえない」といった抽象的、一般的な危惧感、文字どおりの「おそれ」を理由としていることである。従って、その反映として、出題教師の在校も必然的・義務的なものとしてはとらえることができず、「望ましい」また「必要性はより大きい」としか述べることができなかったのである。即ち、原判決自体、出題教師の在校が必然的・絶対的なものではなく、他の用務・公務との比較において決せられるべき問題であることを暗に認めざるを得なかったのである。(前述一、はじめに―問題点の所在)

(二) ところで原判決は、右の一般論につづいて、本件七月二〇日の上告人の年休権行使につき具体的な検討を展開している。すなわち原判決は前記のように右の一般論では、「可能性を否定しえない」「望ましい」「必要性はより大きい」としか述べていないにもかかわらず、具体的認定になると、なんらの具体的な裏付けがないのに突如として、「夕張南高の事業である定期考査の正常な運営を妨げる蓋然性」があると断定しているのである。原判決が具体的検討部分で述べている理由は、〈1〉物理の試験日を七月二〇日以外に振替えることは事実上不可能であったこと、〈2〉上告人は唯一の物理担当教諭であり、物理は専門的な科目のひとつであるから待機ないし巡回教員の代替性が極めて乏しいこと、〈3〉当時夕張南高で、出題教師が在校し、教室を巡回して、必要に応じて生徒の質問に応答したり、試験問題の誤字、印刷不鮮明部分を補正したりするのが一般に行われていたこと、の三点である。しかし、右の〈1〉〈2〉〈3〉の理由は、前述した一般論を裏付けることになっても、それ以上に「事業の正常な運営を妨げる」ことの「蓋然性」を根拠づける理由とはなりえない(右の〈2〉〈3〉の理由づけそのものが誤りであることは後述する)。

従って、原判決には、右の理由にもかかわらず、いぜんとして、「事業の正常な運営を妨げる可能性を否定しえない」という以上の具体的な事由は挙げられてないといわざるをえないのである。

(三) 試験問題の作成も人間の作業である以上、抽象的にいう限り絶対に誤りが、ないとはいえない。しかし問題はこのような莫然たるおそれ、抽象的な危惧感で、「事業の正常な運営を妨げる場合」の解釈を決してはならないというところにある。

ことは当該七月二〇日の上告人の担当教科の試験に際して、学校長が、「当該試験の正常な実施を妨げるごとき事態が発生する蓋然性ありと判断したことに相当の理由あり」といえるかである。上告人は、事前に試験問題を十分点検し、誤字・脱字・印刷不鮮明部分を補正した。(甲イ第三五号証の一、二・原審における控訴人本人尋問の結果)

そして現実に長尾校長が不測の事態を期待して教室を巡回したにもかかわらず結果的には何ら不測の事態も生ぜず正常に終了したことは、被上告人も認めるところである(甲二号証・甲一四号証一六頁)。ここで蓋然性ありと認定するためには、少くとも次の諸事実が認定されねばなるまい。即ち〈1〉上告人の試験問題には、かつて、往々にして瑕疵が存在し、そのため試験が混乱したという事実、〈2〉上告人のみならず、夕張南高、北海道の各高校においても従来試験問題に瑕疵があり、そのため定期考査に混乱が生じたという事実が少からず存在すること、〈3〉上告人、夕張南校、北海道各校において(かつて問題が生じたというだけでなく)比較的最近においても、この種の不祥事や混乱が生じた事実があること、〈4〉当該七月二〇日の物理の試験について、上告人および学校管理者である長尾校長をふくめ、学校全体で事前の点検作業がなされず、従って当日の試験についても混乱の発生を否定しえない状況にあったこと、などの事情が具体的な証拠により認定されることである。

しかるに原判決は、これらの具体的な論証を一切行っていない。そして「誤りの生ずる可能性を否定しえない」といった一般的な可能性ないし、主観的な危惧感で、「蓋然性」を認定しているのである。

これでは、まさに「おそれ」があるから、「おそれ」があるといっているにすぎない。

2 原判決には、証拠の評価、判断の誤りが存し、ひいては採証法則・経験法則の違反が存する。

(一) 原判決は判決理由三2(二)(2)において、「当時同校では、出題教師が試験実施時間に在校し、又は試験実施中の教室を巡回して、必要に応じて、生徒の質問に対し応答したり、試験問題の誤字又は不鮮明部分を補正したりするのが一般に行われており、そのため同校では原則として担当教科の試験実施時間には出題教師を試験実施の監督者としない旨の取扱いがされており」と述べ、これを上告人が七月二〇日在校しないことにより、夕張南高における事業の正常な運営を妨げる蓋然性ありと結論づける理由の一つとしている。

しかし右の部分は、証拠の評価を誤った結論である。たしかに同校では、担当教科の出題教師を試験実施の監督者としない旨の取扱いがされていた。しかしこれは原判決のいうように、在校し、教室を巡回し、生徒の質問に応答したり、試験問題の誤字・不鮮明部分を補正することを目的としてとられた措置ではない。試験監督からはづすのは、第一に、試験が複数教室で実施される場合に、或る一方の教室だけを出題教師が監督することは、生徒にとって公平を欠くと思われがちであることから、一律に出題教師を監督者にしないだけの理由である。(原審における渡辺証人、同倉橋証人の証言)

実際問題として、出題教師が教室を巡回して口頭で説明することは、教室ごとに差が生じて公平を欠き、また生徒の解答時間を縮減するなどの消極効果も否定できずむしろ避けるべきものとされるのである。出題教師が試験監督からはづされて、在校するか(他に用務のない限り在校するのが通常である)、教室を巡回するか否かは教師の自由であり、他の用務のため巡回が欠ける場合もある。これは原審において提出した甲イ第二二号証の一、二、同二三号証、同三六号証の各アンケートの結果から窺われる全道各高校における実態が明白に裏付けている。また時間講師の出題者は、およそ教室を巡回することなど一切しない。(渡辺、倉橋証言)

当時夕張南高において、出題教師が巡回することがあったのも右に述べた趣旨のもとで行われていたのであり、試験の実施に不可欠なものとして必ず在校する義務、他のいかなる用務に優先して在校しなければならぬ義務的措置として行われていたものではない。原判決は、結論を導くために、前述した各アンケート結果から窺われる現実の教育現場の実態を無視し、現に教師として活動し、現場の労働慣行を具体的に証言した渡辺・倉橋証言を、ことさら、しかも何の理由を挙げることなく、採用できないとし、本件時季変更権を行使した当事者である長尾校長の証言のみを根拠にしているのである。しかも長尾校長の証言も在校し巡回することがあるといっているだけで、それが試験実施のために必要不可欠・義務的なものであるとは言っていないのである。従って、原判決が、長尾証言等を根拠に他の証拠を排斥したのは誤まりであり許されない。

(二)(1) 原判決は、2(二)(3)(ホ)の部分において、昭和四〇年当時担当教科の試験日に出題教員が年休をとった事例があるとの上告人の指摘を排斥するにあたり、三瓶教諭の場合につき、次のように述べている。「三瓶教諭は商業科担当で同人を含め商業科担当教員は九名それぞれ在勤していた」、「右三瓶教諭の場合、七月二一日実施の試験科目『経営』は同教諭のみの担当教科であったが、同教科は商業科中の一教科で前記九名の商業科担当の教員による代替性が大であった」。

しかし、この論法でいくならば、「物理は理科の中の一教科で、当時夕張南高校で在勤していた他の四名の理科担当教員で、代替することが可能であり、しかも代替性が大であった」と結論づけられるはづであり、上告人が唯一の物理担当教員の理由で、代替性がなく、それ故常に在校しなければならず、常に年休取得ができないことも、やむをえないなどという非常識な結論にはおよそなりえないのである。高等学校の教員の免許状は「理科」として与えられ、(教育職員免許法第四条五項二号)かつ教科としての「理科」は、「物理」「生物」「地学」(現在はこれに「理科Ⅰ」「理科Ⅱ」が加わっている)の、教科に属する「科目」によって編成されているのである。(学校教育法施行規則五七条、別表第三)

このことは、理科の教員であれば、物理の試験について代替することが可能であることを示す法制度上の根拠である。現在では前述したように、昭和四〇年当時に比べ、理科Ⅰ、理科Ⅱが「科目」としてつけ加わっている。この理科Ⅰ・Ⅱは他の物理・生物・化学・地学に共通する理科の基礎知識を内容とするものであり、理科担当教員はいづれにしても四科目にわたって習得しなければならなくなっており、その意味でも、物理の試験につき、他の理科の科目担当教員による代替が可能なのである。

(2) さらに、原判決は、「とりわけ教科科目が一人である場合には(略)在校する必要性は大きい」とか「物理は高校の教科のうちでも専門的な科目のひとつであるということができるから(略)代替性は乏しい」(原判決2(二)(2))と述べている。しかし、一学年一ないし二クラスで編成されている小規模校・定時制課程では、各教科の担当者はほとんど一名であり、一学年三~四クラスで編成される中規模校においては、社会・理科の各科目、芸術・家庭科の各教科担当者は一名のことが多い。原判決の論理に従えば、これら大部分の教員は、試験日には常に年休を取得できないことになるのである。のみならず、原判決の論理をもってすれば、病休はともかく、特別休暇・義務免すべてとれなくなるという非常識な結果を招くことになりかねないのである。

また物理にとどまらず、他の教科も平等に専門性を有しているのであり、原判決はことさら物理の専門性、特殊性を強調することにより、代替性がないことを裏付けようとしている。しかしその根拠が全くないことは、前述した(1)で明らかである。

(三) また原判決の結論は、教育現場の実態からはおよそ理解することのできない、実態無視の結論に外ならないことを指摘しておきたい。現場での教師集団の意識と、現実の年休権行使の実態については、原審における甲イ第二二号証の一、二、同二三号証、同三六号証の各アンケート結果、および原審証人渡辺、同倉橋の証言のとおりである。原判決の法律上の誤りについては、他に述べるとおりであるが、それのみならず、原判決は右の現場での実態・労働慣行を無視していることの結果として、社会的にみてもなんら評価に値するものとはいえない。現場の教師集団にとって、原判決の結論は何らの説得力を持たない、いわば一笑に付される類としか評価できないのである。

3 長尾校長の本件時季変更権の行使は、時季変更権の濫用であり、法三九条三項但書の効力を有しない。その点を看過した原判決には、法三九条三項但書の解釈・適用を誤った違法が存する。

(一) 本件は、長尾校長による異常なほどの労働組合敵視の学校運営のなかで発生したものであること、特に長尾校長が組合活動を妨害する手段として、組合員による年休権行使をことごとく妨害し、その利用を困難にしていた一連の事件の一つである。(証人沼田の証言、控訴人本人尋問の結果)

原判決が正当に認定しているように(原判決理由三3(一))長尾校長は赴任直後からそれまで制度化されていた組合用務のための職務専念義務(いわゆる義務免)の承認を認めず、組合員が年休により組合用務を行うとするや今度は年休が校長による承認事項であるとし、ことごとく年休の利用目的を問いたゞしては、年休を承認しないという態度を一貫として取り続けた。本件はまさにこのような長尾校長による不利益取扱いとしての時季変更権の行使に外ならない。

(二) 長尾校長は、右の意図のもとに、上告人に対して時季変更権を行使したものであり、まともに、事業の正常な運営を妨げるか否かを検討し、そのうえで時季変更権を行使したとはとてもいえないことは、後述する一連の長尾校長の言動から明らかである(甲第二号証五頁以下、甲第一四号証、甲第二一号証、原審における控訴人本人尋問の結果)。

(1) 上告人は七月一六日竹田教頭を通じて本部指示による組合業務(七月二〇日開催の「大学区制反対・高校再編成反対全道集会」に参加)を理由として七月二〇日の年休請求をした。しかしこの請求に対して、長尾校長は、具体的な理由を示さず不承認と伝えた。

(2) 上告人は翌一七日、組合業務ではあったが、理由を「私事」と書き換えてもよい旨伝えたが、長尾校長は依然として不承認の態度であった。

(3) 右集会はその開催が既に一六日以前に公にされていたからそれを察知した長尾校長が上告人の参加を嫌悪して不承認の態度をとり続けたのである。

(4) 上告人は七月一九日朝、一六日の申請と同様、「本部指示による組合業務」として年休を請求したが、結果は不承認と変らなかった。

(5) 上告人は一九日午後四時頃から他の教師達とともに、数時間にわたり長尾校長と話し合いを持った。しかし長尾校長はそれまでと同様承認権をふりかざし、「年休は校長による承認事項だ。承認基準はその場に応じて異なるから言えない」として上告人の年休を認めなかった。

(三) このように七月二〇日の上告人の年休請求に対する長尾校長の態度は、かたくなに承認拒否を貫くばかりで、時季変更につき、誠意をもって協議するという姿勢は壱も認めることができない。当日上告人が年休を取得することにつき、障害となる点は何か、それを除去するために具体的な手だてをどうしたらよいのか、といった点につき誠実に協議を尽くすこと、また事業の正常な運営を確保するために可能なかぎりの手だてを講じることは、管理者としてとるべき当然の措置である(原判決理由二3(二)(1)〈2〉)。

長尾校長は、この措置をとることさえせず、ひたすら、年休を認めないという態度に終始したのである。

(四) 長尾校長による本件の時季変更権の行使が前述したように不当労働行為意思にもとづくものである以上、それは正常な時季変更権の行使とは認めることのできない、時季変更権の濫用というべきものであり、このような場合法三九条三項但書の効力を有しないといわざるをえない。因にこの点につき「(略)事業場の正常な運営が阻害されるか否かの観点を無視し、年休付与のための基礎資料の調査もなさずして時季変更権を行使したものであり、これは、とりもなおさず時季変更権を濫用するもので違法というのほかはない」と述べた名古屋地裁昭和五一年四月三〇日判決(名古屋南郵便局事件)が参照されるべきであろう。

以上

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